理系の基準は自然界で、文系の基準は自分

開発マネジメント

理系の人達だけで会議をしているとスムーズに議論が進むところに、文系の人が入ると急に難しくなることがあります。技術や科学に関係ないところでも同じで、なんとなく違うとか、しっくりこないとかで話が前にも後ろにも進まない状況になることがあります。

きっと根本的な考え方が違うのだろうとは思っていたのですが、最近なんとなく手に取った中西輝政さんの「本質を見抜く「考え方」」を読んでみて、その違いが見えた気がします。

そもそも基準が違う

ここで理系といっているのは理系脳を持った人のことで、文系の学部出身者でも経済学部とかは結構理系的な人が多かったりします。逆に理系の学部でもまれに文系脳を持っている人も居ますね。

理系は実験で確かめる

理系であれば、所詮人間の考えることには限界があって、人は間違うことがあることを理解しています。正しいと思ったことも実験などを行うことで事実を確かめながら、違いがあれば自らの考えを修正していくことは当たり前のことです。

これはアインシュタインやエジソンのように優れた頭脳の持ち主でも同じです。

文系は肌身の感覚

この本の最初の章で、すべてのものの見方・考え方は、「正しい自画像」を出発点にして始まるのです。とあるように、起点・軸は自分で、もちろん自分で自分を客観的には見れないので「歴史観」でそれを映すと言っています。

釈迦レベルに悟りを開いた人には可能だと思うのですが、「歴史観」というのは多少ぶっ飛んだ物の考え方かなと思ったりもします。きっと「歴史観」が悟りの域に達していると成り立つのかもしれないですね。

ただどの章でも基準が自分にあって、論理的思考は保険でしかないとか、数字や理論の「正しさ」に惑わされないとか、「肌身の感覚」を大切にするとのことです。要は自らを高めて主観を頼りするということです。

収束と発散

理系の議論は客観的な事実がすべてなので、話は事実が確かめられると収束します。STAP細胞は大多数の実験で再現できないことから現状は存在が否定されていますが、その具体的な再現方法さえ明らかになれば話は覆ります。多分理系の多くが再現性の問題で小保方さんが正しい可能性は十分にあると思っているでしょう。

もしも事実の追求をあやふやにして「肌身の感覚」だけを頼りにしていると、実は人類の損失につながるような過ちを犯しているかもしれません。

そもそも「肌身の感覚」は人によって異なります。それを頼りにして話すと発散することになるし、まとまる方向も間違えてしまいます。更には論点がずれて行き、破滅的な議論へと発展することも多いのではないでしょうか。

発散は必要だが

時に議論において発散することは必要で、思わぬアイデアにつながることもあります。ただ無駄な時間に終わることが多いといった欠点もあります。

効率的に発散させて良い成果を生み出すには、ある道で悟りの域に達した「肌身の感覚」を持った人に参加してもらうしかないのかもしれません。今度アイデアが必要な会議のときに住職に参加してもらおうかと考えています。住職の知り合いがいないのが課題ですが。

しかしほとんどの場合は散らかった事態を収束させるのが仕事だったりしますので、そういったときには文系の方々は少し外れてもらうようにしようと思います。

文系の経営やマネジメントは悟りが必要

企業の経営やマネジメントもその道を極めた人は肌身の感覚で当たるかもしれませんが、凡人がそれをやると不幸な人が大勢出てしまうので、技術や経験など事実をベースに論理的思考をするべきだと思います。中途半端な文系の経営者って結構危険かもしれないですね。

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